彼は……彼女だったのだ。
頭が真っ白になる。
俺は今、シャレにならないことをやったのでは……?
「ルーデウス、何をやっているんだ……」
ハッと振り返れば、パウロが立っていた。いつ帰ってきたのか。叫び声を聞きつけてこの部屋に来たのか。
俺は硬直していた。パウロも硬直した。
泣きながらしゃがみこんでいる全裸のシルフがいる。
全裸の俺の手には彼女のパンツが握られている。
そして、俺のキュートなベイビーボーイ。彼は若々しくも猛々しく、その存在を主張していた。何も言い逃れができない状況だった。
俺の手からパンツが落ちた。
外は雨だというのに、パサリという音がやけに響いた気がした。
★ パウロ視点 ★
仕事を終えて家に返ってくると、息子が幼馴染の少女を襲っていた。
頭ごなしに叱ろうとして、しかしオレは慎重になる。今回も何か事情があったのかもしれない。前回の失敗は繰り返すまい。とりあえず、泣きじゃくる少女を妻とメイドに任せて、息子をお湯で拭いてやることにした。
「どうしてあんなことをしたんだ?」
「ごめんなさい」
一年前に叱った時には、絶対に謝らないという意思が見えたものだが、今回はあっさりと謝罪の言葉が出てきた。態度もしおらしい。塩で揉んだ青菜のようだ。
「理由を聞いているんだ」
「濡れたままだから。脱がそうと思ったんです……」
「でも、嫌がってたんだろう?」
「はい……」
「女の子には優しくしなさいって、父さん言ったよな」
「はい…………ごめんなさい」
ルーデウスは何も言い訳をしない。オレがこいつぐらいの時はどうだっただろうか。
〝だって〟と〝でも〟ばっかり言ってた気がする。
言い訳小僧だった。息子は立派だ。
「まぁ、お前ぐらいの歳なら、興味を持つものなのかもしれないがな。ムリヤリはだめだぞ」
「…………はい、ごめんなさい。二度としません」
なんだか打ちひしがれた様子の息子を見ていると、申し訳ない気分になってくる。
女好きはオレの血筋だ。オレは若い頃から血気盛んで精力が強く、可愛い子と見ればひっきりなしに手を出してきた。今はある程度落ち着いたものの、昔は本当に我慢というものができなかった。
遺伝したのだろう。
理知的な息子にとって、そんな本能は悩んで当然のものだろう。
どうして気づいてやれなかったのか……いや、ここは共感すべきところではない。
経験からどうするべきかを示してやるのだ。
「父さんじゃなくて、シルフィエットに謝るんだ。いいね」
「シルフィ、エット……許してくれるでしょうか……」
「最初から許してもらえると思って謝っちゃダメだ」
そう言うと、息子はさらに落ち込んだ。
思えば、最初から息子はあの子に執心していた。一年前の騒動だって、あの子を守るためにしたことだ。その結果、父親に殴られることにすらなった。
その後も、毎日のように一緒に遊んで、他の子から守っていた。剣術も魔術を頑張りながら、彼女のためにマメに時間を作っていた。自分が一番大事にしていた杖や魔術教本を彼女にプレゼントしてしまうぐらい、アプローチしていた。
そんな子に嫌われたかもしれないと思えば、落ち込むのもわかる。
オレだって昔はそうだった。嫌われては落ち込んだものだ。
だが、安心しろ息子よ。オレの経験で言えば、まだまだ余裕で挽回できる。
「なに、大丈夫だ。今までイジワルしてこなかったのなら、心から謝れば、ちゃんと許してくれるさ」
そう言うと、息子はちょっとだけ晴れやかな顔になった。
頭のいい息子だ。今回はちょっと失敗してしまったらしいが、すぐにリカバリーするだろう。
それどころか、今回の失敗をうまいこと利用して、彼女の心を虜にするかもしれない。
頼もしくも末恐ろしい。
風呂から上がった息子は、シルフィエットに向かい開口一番こう言った。
「ごめんシルフィ。髪も短かったし、今までずっと男だと思ってたんだ!!」
ウチの息子は完璧だと思っていたが、意外とバカなのかもしれない。
オレは初めてそう思った。
★ ルーデウス視点 ★
謝ったり褒めたり宥めたりして、なんとか許してもらった。
シルフは女の子だったので、今後はシルフィと呼ぶことにした。
本名はシルフィエットというらしい。
パウロには、あんな可愛い子を男と見間違うとか、どういう目をしているんだと呆れられた。
俺だって、「お前、実は女だったのかー!!」をマジでやると思わなかったさ。
仕方ないじゃないか。初めて会った時は俺よりも髪が短かった。ベリーショートというほどオシャレな感じではないけど、坊主というほど短くもない、そんな感じだった。服装だって女の子っぽい格好は一度もしたことがなかった。浅い色の上着にズボン。それだけだ。スカートでも履いてれば、俺だって間違わなかったさ。
いや……落ち着いて考えてみれば、だ。
髪の色でイジメられていた。だから、髪を短く切って目立たなくするだろう。イジメられれば走って逃げなければいけない。だから、スカートよりズボンを履くだろう。シルフィの家はそれほど裕福ではない。だから、ズボンを一着作れば、スカートを作る余裕は無い。
知り合ったのが三年後だったら、俺だって間違えなかった。
先入観で可愛い男の子だと思っていただけで、中性的というわけでもないのだ。
もし彼女が……いや、もうよそう。
何を言っても言い訳だ。
女の子だとわかると俺の態度も変わってしまう。
男っぽい格好をしているシルフィを見ていると、変な気分になる。
「し、シルフィは可愛いんだから、もっと髪を伸ばしたほうがいいんじゃないですか?」
「え……?」
どうせなら見た目から変わってくれれば仕切り直しもしやすい。
そう思い、そう提案する。
シルフィは自分の髪が嫌いだが、エメラルドグリーンの髪は、陽の光を浴びると透けるように輝く。ぜひとも伸ばしてほしい。そしてできればツインテかポニテにしてほしい。
「やだ……」
しかし、あの日以来、シルフィは俺に対して警戒心を抱くようになった。
特に身体的な接触は露骨に避けられるようになった。
今までハイハイと何でも言うことを聞いていたので、ちょっとショックだ。
「そっか。じゃあ今日も無詠唱での魔術の練習をしましょうか」
「うん」
内心を隠すように、表情を取り繕う。シルフィには俺しか友達がいないので、結局は二人で遊ぶことになる。まだわだかまりは残っているようだが、一応は遊んでくれる。
なので、今はそれでよしとしよう。
★ ★ ★
現在の俺のスキルをこの世界での基準で表すと以下の通りである。
『剣術』
剣神流:初級 水神流:初級
『攻撃魔術』
火系:上級 水系:聖級 風系:上級 土系:上級
『治癒魔術』
治療系:中級 解毒系:初級
治癒魔術は、やはり七段階のランクに分けられており、治療・結界・解毒・神撃の四つの系統から成り立っている。
といっても、攻撃魔術と違い、火聖とか水聖とかカッコイイ呼び名はない。
聖級治療術師、聖級解毒術師、といった呼ばれ方をする。
治療は文字通り、傷を直す魔術。最初は切り傷を直すのが精一杯だが、帝級まで上がれば失った腕を生やすとかもできるらしい。ただし、神級になっても死んだ生物は生き返らない。
解毒は文字どおり。毒や病気を直す術だ。階級が上がれば、毒を作り出したり、解毒薬を作ることもできるのだとか。状態異常の魔術は聖級以上で、難しいらしい。
結界は防御力を上げたり、障壁を作り出す術だ。わかりやすく言えば補助魔法だろう。詳しいことはわからないが、新陳代謝を上げて、軽いキズを治したり、脳内物質を発生させることで、痛みを麻痺させたりしてるんだと思う。ロキシーは使えなかった。
神撃系はゴースト系の魔物や邪悪な魔族に有効的なダメージを与える魔術らしいが、神撃系は人族の神官戦士が秘匿している魔術であるらしく、魔法大学でも教えていないのだとか、ロキシーも知らなかった。
ゴーストなんて見たこともないが、この世界にはデるらしい。
原理がわからないと無詠唱で使えないので、不便である。
そもそも、攻撃魔術に理科っぽい原理があるというだけで、他の魔術にも原理があるのかどうかがわからないのだ。魔力というものが万能の元素っぽいのはわかる。だが、どういう変化をさせれば何ができるのかはわかっていない。
例えば、遠くのものを浮かせたり手元に引き寄せたりするサイコキネシス。
これなんかも再現できそうではあるが、超能力者でなかった俺にはどうやれば再現できるのか見当もつかない。
ちなみに、俺は傷が治るプロセスをふわっとしか憶えていない。ゆえに、ヒーリングを無詠唱でできないのだと思う。医者としての知識を持っていれば、治癒魔術も無詠唱で使えたかもしれない。
他にだって、何かしらしていれば、魔術で再現できただろう。
あるいは、スポーツでもやっていれば、剣術も上達したかもしれない。
そう思えば、生前はなんと無駄な時間を過ごしてきたのだろうか。
いいや。無駄などではない。
確かに俺は仕事もしなかったし学校にも行かなかった。だが、ずっと冬眠していたわけではない。あらゆるゲームやホビーに手を染めてきた。他の奴らが勉強や仕事なんぞにかまけている間に、だ。
そのゲームの知識、経験、考え方は、この世界でも役立つ。
はずだ……!!
まあ、今は役立ってないんだけどね。
★ ★ ★
それは、パウロとの剣術の鍛練中のことだ。
「はぁ……」
思わずため息が漏れた。
露骨なため息をついては怒られるかと思ったが、パウロはニヤニヤと笑った。
「ははーん。ルディ、さてはお前。シルフィエットに嫌われて落ち込んでるな?」
今のため息はそのことではない。
ではないが、確かにシルフィのことも悩みの一つだ。
「ええ、まあ。剣術もうまくならないし、シルフィには嫌われるし、ため息も吐きますよ」
パウロはニヤニヤと笑って、木剣を地面に刺した。木剣にもたれかかるように、目線を落としてくる。
まさかこいつ、笑いものにする気じゃねえだろうな……。
「父さんがアドバイスしてやってもいいぞ」
意外な言葉が出た。
俺は考える。
父、パウロはモテる。ゼニスは美女と言ってもいいし、エトの奥さんの件もある。リーリャだってパウロに尻を触られてまんざらではない顔をしていた。何かあるのだ、女の子に嫌われないための秘訣が。リア充に至る道が。まあ感覚派だろうから理解はできないだろうが、参考にはなるかもしれない。
「お願いします」
「んー、どうしようかなぁ」
「靴でも舐めましょうか?」
「いや、お前、いきなり卑屈になったな」
「教えてくれなければ、リーリャに色目を使ったことを母様に報告します」
「今度はやけに高圧的……って、うぉぃ!! 見てたのかよ!! わかった、わかったよ。もったいぶって悪かった」
リーリャに色目ってのはカマを掛けただけだったんだが……。
もしかして──浮気?
まあいいか。それだけこの男がモテるってことだ。モテ男様の講義を聞くとしよう。
「いいか、ルディ、女ってのはな」
「はい」
「男の強い部分も好きだが、弱い部分も好きなんだ」
「ほう」
聞いたことがあるな。母性本能がどうとかって話か?
「お前、シルフィエットの前で強い部分しか見せてこなかったんじゃねえか?」
「どうでしょう、自覚はありませんが」
「考えてみろ。自分より明らかに強い奴が、欲望をむき出しにして迫ってきたら、どう思う?」
「怖い、でしょうね」
「だろう?」
あの日のことを話しているのだろう。彼が彼女になった日のことを。
「だから弱い部分を見せてやるんだ。強い部分で守ってやり、弱い部分を守ってもらう。そういう関係に持っていくんだ」
「ほう!!」
わかりやすい! 感覚派のパウロとは思えない!
強いだけではダメ、弱いだけでもダメ。しかし両方を兼ね備えればモテる!!
「でも、どうやって弱い部分を見せれば」
「そんなのは簡単だ。お前、今悩んでるだろ?」
「ええ」
「ひた隠しにしているそいつを、シルフィエットの前であからさまな態度に表すんだ。オレは悩んでいます、あなたに避けられて落ち込んでいますってな」
「す、するとどうなります?」
パウロはニヤリと笑う。悪い顔だ。
「うまくいけば、向こうから寄ってくる。慰めてくれるかもしれん。そしたら、元気になれ。仲良くしたら相手が元気になった。それが嬉しくない奴はいない」
「!!」
なるほど。自分の態度で相手の感情をコントロールする……。
さすがだ。でも計画どおりにいくとは限らないのでは?
「そ、それでダメだったらどうします?」
「そん時はまた聞け。次の手を教えてやる」
二手目があるのか。策士、策士だよこの男!!
「な、なるほど、じゃあ今すぐ行ってきます!!」
「行ってこい、行ってこい」
パウロはひらひらと手を振った。俺は居てもたってもいられず、駈け出した。
「六歳の息子になに教えてんだか……」
後ろから、そんな声が聞こえた気がした。
★ ★ ★
木の下についたが時間が早すぎたので、シルフィは来ていない。
木剣を持ってきたのはいつもどおりだが、いつもは身体を拭いてから来るので、汗びっしょりだ。どうしよう。どうしようもない。こういう時は脳内練習だ。俺は木剣を振ってシミュレートする。強さは見せてきた、次は弱さを見せる。弱さ。どうやってだっけか。そう、落ち込んでいるところを見せるのだ。どうやって。タイミングは。いきなりやるのか。それはおかしいだろう。話の流れで、だ。できるのか、いや、やってみせるさ。
そんなことを考えて木剣を振っていたら、いつのまにか握力が無くなっていたのか、木剣がすっとんでいった。
「うっ……」
剣が転がった先に、シルフィがいた。俺は頭の中が真っ白になった。
ど、どうしよう。なんて言えばいい?
「ど、どうしたのルディ……?」
シルフィは、俺を見ると目を丸くした。なんだろう、どうしたって、早く来すぎたせいか?
「んー、ふぅ……んふー、シルフィの可愛い姿が、見れなくて、ざ、残念だなーって」
「そ、そうじゃなくて、その汗」
「はぁ……はぁ……あ、汗? なにが……?」
はぁはぁと息を荒く近寄ったら、怯えた顔で引かれた。いつもどおり一定以内の距離には近づかせてくれないのだ。
俺はこんなに惹かれているのに、君はこんなに引いている。なんちゃって。
「……」
汗が額から落ちてくる。息も整ってきた。よし。
俺は打ちひしがれた様子で木に手を当てて、反省のポーズ。しょんぼりと肩を落とし、大きくため息。
「はぁ……最近のシルフィ、冷たいよね……」
しばらく沈黙が流れた。
これでいいのか? これでいいのかパウロ。もっと弱々しい感じを見せたほうがいいのか。それともワザとらしすぎたか?
「!!」
俺の手が後ろからぎゅっと握られた。温かくも柔らかい感触に振り返ると、シルフィがいた。
お、おおお!
こんなに近い。久しぶりにシルフィが近い。パウロさん! 俺、やりましたよ!!
「だって、最近のルディ、なんかちょっと変だもん……」
シルフィは少しだけ寂しそうな顔で言った。我に返る。
うん。自覚はあった。
言われるまでもなく、俺は今までと同じ態度では接していない。
シルフィから見れば、それはまさに豹変だったろう。相手が小金持ちだと知った瞬間の婚活女子の如き豹変だ。
気分がいいわけがない。でも、じゃあどうやって接すればよかったんだ?
今までと同じように、なんてのはさすがに無理だ。こんなに可愛い子と一緒にいて緊張しないわけがない。
幼く、同年代、可愛い女の子。こんなのと仲良くなる方法を俺は知らない。
俺が大人の立場なら、あるいはシルフィがもっと育っていれば、エロゲー等で得てきた知識を総動員してなんとかした。男なら、弟が幼かった頃の経験を生かした。けれども彼女は同年代の幼女で、女の子だ。無論、それぐらいの年齢の女の子と性的に仲良くなるゲームもやったことはあるが、あんなものは幻想だ。それに、そういう関係になりたいわけじゃない。シルフィはまだ幼すぎる。俺の守備範囲じゃない。
とりあえず、今のところはね。将来的には期待してるけどね!!
それはさておき、彼女はイジメられっ子だった。俺がイジメられていた時、味方はいなかった。だから、俺は彼女の味方でいてやりたい。男だろうと女だろうとだ。その部分だけは変わらない。でも、やっぱり今までと同じように接するのは難しいのだ。俺だって男だし、可愛い女の子とはいい関係を築いていきたい。
今後のために!!
ぬう……わからない。どうすればいいんだ。そこもパウロに聞いておけばよかった……。
「……ごめんね、でも私、ルディのこと、嫌いじゃないよ」
「し、シルフィ……」
俺が情けない顔をしていると、シルフィは俺の頭を撫でてくれた。
そして、シルフィはほやっとしたはにかみ笑いを見せた。柔らかい笑みだった。
じーんときた。
明らかに俺が悪いのに、彼女は謝ってくれたのだ。
俺は彼女の手を掴んで、ぎゅっと握った。
シルフィはちょっと驚いて顔を赤くしつつ、上目遣いで言った。
「だから、普通にしてて?」
上目遣いのその言葉は強力だった。
俺に決断させるに十分な威力を秘めていた。
俺は決意した。
そうだ。彼女は普通を望んでいる。
今までどおりの関係だ。だからできる限り普通に接するのだ。
彼女が怯えないように、狼狽えないように、男としての部分をひた隠しにして接するのだ。
つまり、アレだ。俺はアレになればいいのだ。
なってやろうじゃないか。
鈍感系主人公に。
第九話「緊急家族会議」
ゼニスの妊娠がわかった。弟か妹が生まれるらしい。
家族が増えるよ。やったねルディちゃん!!
ゼニスはここ数年悩んでいた。
彼女は俺以降に子供ができないことを気に病んでいた。
もう自分は子供が産めないんじゃないかと、ため息混じりに漏らしていたのだが、一ヶ月前ぐらいから味覚の変化に始まり、吐き気、嘔吐、倦怠感。いわゆるつわりの症状が出始めた。憶えのある感覚だったため、医者に行った結果、ほぼ間違いないだろうと言われたらしい。
グレイラット家はその報告に沸いた。
男の子だったら名前はどうしよう、女の子だったら名前はどうしよう。部屋はまだあったよな。子供服はルディのお下がりを使おう。
話題は尽きなかった。
その日はずっと賑やかで、笑いの絶えない日だった。俺も素直に喜び、できれば妹がいいと主張した。弟は俺の大切なものを壊していくからな(バットで)。
そして。
問題はそのさらに一ヶ月後に浮上した。
★ ★ ★
メイドのリーリャの妊娠が発覚した。
「申し訳ありません、妊娠致しました」
家族の揃った席で、リーリャが淡々と妊娠を報告した。
その瞬間、グレイラット家は凍りついた。
(相手は誰……?)
なんてことを聞ける空気ではなかった。
全員が薄々感づいていた。リーリャは勤勉なメイドだ。給金もほとんど実家へと送っていた。村の問題を解決するためにちょくちょく出かけるパウロや、定期的に村の診療所に手伝いにいくゼニスと違い、業務以外での外出もほとんどしなかった。リーリャが誰かと特別親しくしているという噂も聞かない。
あるいは行きずりの誰かと、とも思ったが……。
俺は知っている。
ゼニスが妊娠してから禁欲生活を強いられたパウロのことを。性欲を持て余したヤツが、夜中にこっそりとリーリャの部屋に向かったのを。
俺が本当に子供だったら、二人でトランプでもしてるだろうと思っただろう。
だが残念ながら、俺は知っている。ババ抜きではなく、母抜きで何が行われていたのかを。
だが、もう少し気をつけてほしかった。例のあの二人も言っているじゃないか。
『良い子の諸君!! 「やればできる」実にいい言葉だな。我々に避妊の大切さを教えてくれる!!』
この言葉を、顔を真っ青にしているパウロにも聞かせてやりたい。
ま、この世界に避妊という概念があるかどうかは知らないが。
もちろん。事実を暴露して家庭崩壊を招くつもりはない。
メイドに手出しとか、いつもなら許せんと思う。
だが、パウロにはシルフィの件で世話になった。今回だけは許してやろう。
モテる男は辛いのだ。なので、もし疑われてたら庇ってやろう。偽のアリバイをでっち上げてやってもいい。そう決めて、安心してくれ、という視線でパウロに目配せしておいた。
と、同時にゼニスが、まさかという顔でパウロを見た。
奇しくも、俺とゼニスの視線が一斉にパウロに注がれることとなった。
「す、すまん。た、多分、俺の子だ……」
奴はあっさりとゲロった。
情けない……。いや、正直な男だと褒めるべきか。もっとも日頃から家族の揃った席で俺に向かって、「正直に」とか「男らしく」とか「女の子を守れ」とか「不誠実なことはするな」と偉そうに薫陶をたれていた手前、嘘を吐けなかっただけなのかもしれないが。
いいじゃないか。嫌いじゃないよ、お前のそういうところ。
(状況は最悪だけどな……)
ゼニスが仁王のような顔で立ち上がり手を振り上げるのを見て、俺はそう思った。
こうして、リーリャを交えて、緊急の家族会議が勃発した。
★ ★ ★
沈黙を最初に破ったのはゼニスだった。
会議の主導権は彼女に握られている。
「それで、どうするつもり?」
俺の目から見るに、ゼニスは極めて冷静だった。
浮気した夫に対してヒステリーも起こしておらず、ただ一発頬を張っただけだ。
パウロのほっぺちゃんには赤いもみじ模様がついている。
「奥様の出産をご助力した後、お屋敷をお暇させていただこうかと」
答えたのはリーリャだ。彼女も極めて冷静だった。この世界では、こういうことがよくあるのかもしれない。雇い主にお手付きにされるメイド。問題になり、屋敷から出ていく。
うん。
いつもならそんな不憫なストーリーには興奮する。けど、さすがにこの空気ではピクリともしない。俺にだって節操はあるのだ。パウロと違ってな。
ちなみにパウロは端の方で縮こまっている。
父親の威厳? んなもんねーよ。
「子供はどうするの?」
「フィットア領内で産んだ後に、故郷で育てようかと思います」
「あなたの故郷は南の方だったわね」
「はい」
「子供を産んで体力の衰えたあなたでは、長旅には耐えられないわね」
「……かもしれませんが、他に頼れるところもないので」
フィットア領はアスラ王国の北東だ。
俺の知識によると、アスラ王国で『南』とされる地域へは、乗合馬車を乗り継いでも一ヶ月近くかかる。一ヶ月とはいえ、アスラ王国は治安も気候もいい。乗合馬車を使えば、過酷というほどではない。
だが、それは普通の旅人の場合だ。
リーリャには金がない。乗合馬車には乗れないし、旅路は徒歩になるだろう。
もし、グレイラット家が旅費を出し、乗合馬車を使えたとしても、危険性は変わらない。
子供を産んだばかりの母親の一人旅。俺が悪い奴だとして、それを見かけたらどうする?
そりゃ襲うさ。格好のカモだ。狙ってくれと言っているようなものだ。子供を人質にでも取って、適当な口約束で母親を拘束。とりあえず金銭は奪い、身ぐるみを剥ぐ。この世界には奴隷制度があるらしいので、子供と母親、両方とも売り払って終了だ。
いくらアスラ王国はこの世界でも一番治安のいい国だと言っても、悪い輩がゼロというわけではないはずだ。高確率で襲われるだろう。
ゼニスの言うとおり、体力的な面もある。リーリャの体力がもったとしても、子供はどうだ。
生まれたばかりの子供が一ヶ月の旅に耐えられるか?
無理だろう。
もちろん、リーリャが倒れれば、子供だって道連れだ。病気になっても、医者に見せる金が無いのなら、共倒れになる。
赤子を抱いたリーリャが大雪の中で倒れている光景が目に浮かんだ。
俺としては、リーリャにそんな死に方はしてほしくない。
「あの、母さん、さすがにそれは……」
「あなたは黙っていなさい!!」
パウロがおずおずと口を開いたが、ゼニスにピシャリと言われて、子供のように縮こまった。
この一件に関して、彼に発言権は無い。パウロは役に立たない。
「…………」
ゼニスは難しい顔で爪を噛んだ。どうやら彼女も迷っているらしい。
彼女はリーリャを殺したいほど憎んでいるわけではない。
それどころか、二人は仲がいい。六年も一緒に家事をしてきたのだ、親友と言ってもいいだろう。
リーリャが宿したのがパウロの子供でなかったら。
例えば路地裏でレイプされた結果にできた子供であったとしたら、ゼニスは迷うことなくリーリャを保護し、我が家で子供を育てることを許可……いや強制しただろう。話の流れから察するに、この世界には堕胎という概念はないようだし。
今、ゼニスの中で二つの感情がせめぎ合っているのだと思う。
好きだという気持ち、裏切られたという気持ち。
この状況で後者に感情が偏っていないゼニスはすごいと思う。俺なら嫉妬で今すぐ叩き出す。
ゼニスが冷静でいられるのは、リーリャの態度も関係しているだろう。リーリャは言い逃れを一切せずに、責任を取ろうとしている。仕えてきた家を裏切った責任を。
だが、俺に言わせれば、責任を取るべきなのはパウロだ。リーリャが一人で責任を取るのは、おかしい。
絶対におかしい。
こんなおかしな別れ方をしてはいけない。
俺はリーリャを助けることに決めた。リーリャには世話になっている。あまり関わりあいにはなっていないし、話しかけられたこともほとんどない。
けれど彼女はきちんと世話を焼いてくれている。剣術で汗をかいたら布を用意してくれる。雨に濡れたらお湯を用意してくれる。冷え込む夜には毛布を用意してくれる。本を棚にしまい忘れたら、きちんと整頓してくれる。
そして何より。
何より……何より、だ。
彼女は御神体の存在を知りつつ、黙っていてくれている。
そうリーリャは知っているのだ。
あれはシルフィをまだ男だと思っていた頃だ。
雨が降っていた。俺は復習も兼ね、自室で植物辞典を読んでいた。すると、リーリャが来て、掃除を始めた。辞典に夢中になっていた俺は、リーリャが神棚付近を掃除しているのに気づかなかった。気づいた時には手遅れで、リーリャの手には御神体が摘まれていた。
バカなと思った。確かに俺は二十年近く引きこもっていた。誰はばかることなく、オープンに散らかしていた。デスクトップには「えろ絵」なんてフォルダすらあった。だから、隠蔽スキルは錆び付いてしまっていたのかもしれない。だがまさか、こうもあっさりと見つかるとは。結構マジに隠したのに……。これがメイドという生き物なのか。
俺の中で何かが崩れると同時に、頭のてっぺんから血液が落ちる音を聞いた。
尋問が始まった。
リーリャは言った「これはなんですか?」と。
俺は答えた「なななんでしょうね、それわはははははは」と。
リーリャは言った「匂いますね」と。
俺は答えた「ご、ゴマラーユの香りかなんかなんじゃないんじゃないですかね」と。
リーリャは言った「誰のですか?」と。
俺は答えた「…………すいません、ロキシーのです」と。
リーリャは言った「洗濯をしたほうがいいのでは?」と。
俺は答えた「それを洗うなんてとんでもない!!」と。
リーリャは無言で御神体を神棚へと戻した。
そして、戦慄する俺を背に、部屋から出ていった。
その晩、俺は家族会議を覚悟した。
しかし、何もなかった。
深夜、布団の中でガタガタ震えて過ごした。翌朝になっても、何もなかった。
彼女は誰にも言わなかったのだ。
この恩を、今返そう。
「母様。一度に二人も兄弟ができたというのに、なんでこんなに重い雰囲気なのですか?」
なるべく子供らしく。
リーリャも妊娠したんだ。やったね、家族がたくさんだ。なのにどうして怒ってるの?
という感じを出しながら、俺は切り出した。
「お父さんたちがやっちゃいけないことをしたからよ」
ゼニスはため息混じりに言う。その声音には、底知れぬ怒りが混じっている。けれど、怒りの矛先はリーリャではない。ゼニスだってわかっているのだ。
一番悪いのは、誰か。
「そうですか。しかしリーリャは父様に逆らえるのでしょうか?」
「どういうこと?」
なら、パウロには悪いが、今回は自業自得だ。罪を一手に被ってもらうとしよう。
すまんね、シルフィの件でのことは次回だ。
「僕は知っています。父様はリーリャの弱みを握っています」
「え? 本当なの!?」
俺のでまかせを信じ、ゼニスは驚いてリーリャを見る。
リーリャはいつもどおり無表情だが、心当たりがあったらしく、眉をぴくりと動かした。ホントに弱みを握られているのだろうか。普段の言動を見る限り、むしろリーリャがパウロの弱みを握っているように見えたが……。
いいや。好都合だ。
「この間、夜中にトイレに行こうと思ってリーリャの部屋の前を通ったら、父様が……なんとかを言いふらされたくなかったらおとなしく股を開けって言っていました」
「なっ!! ルディ、なにをバカな……」
「あなたは黙っていなさい!!」
ゼニスが金切り声を上げて、パウロを制した。
「リーリャ、今の話は本当?」
「いえ、そんな事実は……」
リーリャは言いかけてから、視線を彷徨わせた。
本当に心当たりがあるのか。あるいはそういうプレイでもしたのかもしれない。
「そうね、あなたの口からはあったとは言えないわね……」
ゼニスはその態度に、勝手に納得した。
パウロは目を白黒させて口を開き、しかし言葉は出せずにパクパクと金魚のようになっている。
よし。畳み掛けよう。
「母様。リーリャは悪くないと思います」
「そうね」
「悪いのは父様です」
「……そうね」
「父様が悪いのにリーリャが大変な目に遭うのは間違っています」
「…………そうね」
手応えが薄い……あと一息。
「僕はシルフィと一緒にいて毎日が楽しいのですが、生まれてくる僕の弟か妹にも、同じぐらいの年齢の友達がいたほうが良いのではないでしょうか」
「……そう、ね」
「それに母様。僕にとっては両方とも兄弟です」
「…………わかったわよ。もう、ルディには敵わないわね」