生前、何もできなかった俺が、一つのことを成し遂げた。
そう思った途端、腹の底から何かが湧きあがってくるような奇妙な感覚があった。
この感覚は知っている。
達成感だ。
俺はこの瞬間、この世界に来て初めて『第一歩』を踏み出したのだと実感した。
★ ★ ★
翌日。
ロキシーは旅装を整え、二年前に来た時と寸分変わらない格好で玄関にいた。
父も母もロキシーが来た時と、あまり変わらない。
俺の背だけが伸びていた。
「ロキシーちゃん、まだウチにいてもいいのよ? 教えてないお料理も一杯あるし……」
「そうだぞ。家庭教師が終わったとはいえ、君には去年の干ばつの時にも世話になったしな。村の奴らだって歓迎するだろう」
両親はそう言ってロキシーを引きとめようとする。
俺の知らないところで、ロキシーは両親と仲良くなっていたらしい。
まぁ、彼女は午後から夜まで丸々暇だったわけだし、毎日何かしらしてれば、顔も広くなるか。
主人公が行動を起こさない限り能力に変動のないゲームのヒロインとは違うってことだ。
「いいえ。ありがたい申し出ですが、今回のことで自分の無力さを思い知りました。しばらくは世界を旅しながら、魔術の腕を磨くつもりです」
どうやら、俺にランクで追いつかれてしまったのがショックらしい。
前に、弟子に追いつかれるのは嫌だと言ってたしな。
「そうか。まぁ、なんだ。悪かったな。うちの息子が自信を失わせてしまったようで」
パウロよ。そういう言い方はよくないぞ。
「いえ、思い上がりを正していただいたことを感謝すべきはこちらです」
「水聖級の魔術が使えて思い上がりってことはないだろう」
「そんなものが使えなくとも、工夫しだいでそれ以上の魔術が使えることを知りました」
ロキシーは苦笑しながらそう言うと、俺の頭に手を置いた。
「ルディ。精一杯頑張ったつもりですが、わたしではあなたを教えるのに力不足でした」
「そんなことはありません。先生は色んなことを教えてくれました」
「そう言ってもらえると助かります……ああそうだ」
ロキシーは、ローブの内側に手を入れると、ゴソゴソと中を探り、革紐についたペンダントを取り出した。
緑の光沢を持つ金属でできていて、三つの槍が組み合わさったような形をしている。
「卒業祝いです。用意する時間が無かったので、これで我慢してください」
「これは……?」
「ミグルド族のお守りです。気難しい魔族と出会った時にこれを見せてわたしの名前を出せば、少しぐらいは融通してくれる……かもしれません」
「大切にします」
「かもですからね。あんまり過信してはいけませんよ」
ロキシーは最後の最後に小さく微笑んで、旅立っていった。
俺はいつしか泣いていた。
彼女には、本当にいろんなものをもらった。
知識、経験、技術……。
彼女と出会わなければ、俺は今もなお、一人で魔術教本を片手に効率の悪いことをやっていただろう。
そして何より、彼女は俺を外に連れ出してくれた。
外に出た。
それだけのこと。
ただ、それだけのことだ。
ロキシーに連れ出してもらった。
そのことに意味がある。
この村に来て、まだ二年しか経っていないロキシーが。
決して他人との付き合いがうまいとは思えないように見えるロキシーが。
魔族ということで、村人から決していい目を向けてもらえなかったはずのロキシーが。
パウロでもゼニスでもなく、ロキシーが連れ出してくれたことに、意味がある。
連れ出したといっても、ただ村を横切っただけ。
しかし、外に出るという行動は、俺にとって間違いなく心的外傷だった。
彼女はそれを治してくれた。
ただ村を横切っただけで。
俺の心を晴れやかにさせてくれた。
彼女は俺を更生させるのが目的ではなかった。
だが、俺の中で何かが吹っ切れたのは間違いない。
昨日、びしょ濡れで帰ってきた俺は、門を振り返り、一歩だけ外に出てみた。
ただそこには、地面があった。
ただの地面だ。
震えはなかった。
俺はもう、外を歩けるのだ。
彼女は、誰にもできないことを、やってのけたのだ。
生前、両親も兄弟もできなかったことを。
彼女はしてくれたのだ。
無責任な言葉でなく、責任ある勇気を与えてくれたのだ。
狙ってやったことじゃない。
それはわかっている。
自分のためにやったことだ。
それもわかっている。
けれど尊敬しよう。
あの小さな少女を、尊敬しよう。
そう心に誓い、俺はロキシーの背中が見えなくなるまで見送った。
手元には、ロキシーにもらった杖とペンダント。
そして数々の知識だけが残った。
と、思ったら。
数ヶ月前に盗んだロキシーの染み付きパンツが自室にありました。
ごめんなさい。
第七話「友達」
俺は外に出てみることにした。
せっかくロキシーが外に出るようにしてくれたのだ。無駄にはすまい。
「父様。外で遊んできてもいいですか?」
ある日、植物辞典を片手にパウロにそう聞いてみた。
この年頃の子供というものは、目を放すとすぐにどこかに行ってしまう。
近所とはいえ、黙って出ては親も心配するだろうとの配慮だ。
「外? 遊びに? 庭じゃなくてか?」
「はい」
「お、おお。もちろんだ」
あっさりと許可が出た。
「思えば、お前には自由な時間を与えていなかったな。親の勝手で魔術と剣術を同時に習わせたが、子供には遊ぶことも必要だ」
「いい先生と巡り合わせていただいて感謝しています」
厳格な教育パパだと思っていたが、わりと柔軟な思考をしているらしい。
一日中剣術をしろと言われる可能性まで考慮していたのだが、拍子抜けだ。
感覚派だが、根性論は持っていないらしい。
「それにしても、お前が外に、か。身体の弱い子だと思っていたが、時が経つのはあっという間だな」
「身体が弱いなんて思ってたんですか?」
初耳だ。病気なんてしたことないのに……。
「全然泣かなかったからな」
「そうですか。まぁ、今が大丈夫ならいいじゃないですか。丈夫で愛嬌のある息子に育っていますよ。びろーん」
と、ほっぺたを引っ張って変顔をしてみせると、パウロは苦笑した。
「そういう、子供らしくないところが逆に心配なんだがな」
「長男がしっかりしていることの何が不満なんですか」
「いや、不満は無いんだが」
「不満たらたらの顔で、もっとグレイラット家の跡継ぎとして相応しい人間になれ、とか言ってもいいんですよ?」
「自慢じゃないが、父さんがお前ぐらいの頃は女の子のスカートをめくることに夢中な悪ガキだった」
「スカートめくりですか」
この世界にもあるのか。
しかし自分で悪ガキつったな、この男。
「グレイラット家に相応しい人間になりたいなら、ガールフレンドの一人でも連れてきなさい」
なに? ウチってそういう家柄なの?
辺境を守る騎士で下級貴族って話じゃなかったの?
格式とか無いの? いや、所詮は下級。そんなもんか。
「わかりました。では、めくるスカートを見つけに村に行ってまいります」
「あ、女の子には優しくするんだぞ。それに、自分の方が力が強くて魔術が使えるからって威張っちゃだめだ。男の強さは威張るためにあるんじゃないからな」
お、今いいこと言った。
いいねいいね、生前のうちの兄弟にも聞かせてやりたいよ。
そうだな、力ってのはただ振るっても意味がない。
パウロの言うことはもっともだよ。俺も理解者さ。
「わかっていますよ父様。強さとは、女の子にいい格好を見せる時のためにあるんですよね」
「……いや、そうじゃなくてな」
あれ? そういう話の流れじゃなかったのか?
失敗失敗。てへぺろ。
「冗談です。弱い者を守るためにあるんですよね?」
「うむ、そのとおりだ」
そんな会話の後、植物辞典を小脇に抱え、ロキシーにもらった杖を腰に差し、さぁ出かけようかと思ったところでふと気づいて振り返った。
「ああそうだ、父様。これからもちょくちょく外出すると思いますが、出かける時は必ず家の誰かに言いますし、剣術と魔術の鍛錬は毎日欠かさずやります。日が落ちて暗くなる前には帰りますし、危ない所には近づきません」
「あ……ああ」
念のため、そう言い残しておく。
パウロはなぜか唖然としていた。
本当なら、お前が言わなきゃいけないことだぜ?
「では、行ってきます」
「…………行ってらっしゃい」
こうして、俺は家を出た。
★ ★ ★
数日が経過した。
外は怖くない。順調だ。すれ違う人と爽やかな挨拶をかわせるようにまでなった。
人々は俺のことを知っていた。パウロとゼニスの子供、ロキシーの弟子として。
初対面の相手には挨拶と自己紹介。二度目の人にはこんにちは。誰もがにこやかな顔で挨拶を返してくれる。
こんな晴れやかな気分は久しぶりだ。
半分以上がパウロとロキシーの知名度のおかげ。残りは全てロキシーのおかげだ。
つまり大体ロキシーのおかげだな。
御神体を大切にしよう。
★ ★ ★
さて。
外に出た主な目的は、主に自分の足で歩き、地理を覚えることだ。
地理さえ覚えておけば、突然家から叩き出されても、迷ったりしないからな。
同時に、植物系の調査も行いたい。
ちょうど植物辞典もあることだし、食べられるもの、食べられないもの、薬になるもの、毒になるもの……。それぞれ見分けられるようにしておいたほうがいい。
そうすれば、突然家から叩き出されても、飯に困ることはないからな。
ロキシーはさわりしか教えてくれなかったが、この村では麦と野菜と香水の材料を栽培しているらしい。
香水の材料、バティルスの花というのはラベンダーによく似た植物だ。
薄紫色をしており、食べることもできるのだとか。
そういった目立つものを中心に、俺は目についた植物を片っ端から植物辞典で照合していった。
といっても、村はそれほど広くないし、大した植物があるわけじゃない。
何日もしないうちに、俺の行動半径は広がり、森の方へと向くようになっていた。
森には植物が多いからだ。
「確か、森は魔力溜まりができやすいから、危ないんだったな」
魔力溜まりができやすい環境は、魔物の発生率が高い。
魔力による突然変異で生まれてくるのが魔物だからな。
なぜ森に魔力溜まりができやすいのかは知らんが。
もっとも、このあたりはそもそも魔物が出にくい上に、定期的に魔物狩りが行われているので比較的安全だ。
魔物狩りとは文字通り。
月に一度、騎士、狩人、自警団たちといった男衆が、総出で森に入って魔物を一掃するらしい。
とはいえ、森の奥で凶悪な魔物がいきなり出現することもあるらしい。
俺は魔術を憶えて多少は戦える力を手に入れたかもしれない。
だが、元は喧嘩もロクにしたことのない引きこもりだ。
増長してはいけない。
実戦経験も無いし、調子に乗ってヘマしたら目も当てられない。
そうして死んでいった奴を何人も見てきた……漫画でな。
そもそも、俺は血の気の多いほうじゃない。戦いは極力避けるのが一番だと思っている。
魔物に遭遇したら逃げ帰ってパウロに報告しよう。
そうしよう。
そんなことを考えつつ、俺は小高い丘を登っていた。
丘の上には、大きな木が一本だけ立っている。
この辺りで一番大きな木だ。
自分で歩いた村の地理を確かめるのには高い所がいい。
ついでに、このへんで一番大きなあの木が何の木なのかを確かめるつもりだった。
と、その時。
「魔族は村にはいんなよなー!」
風にのってそんな声が聞こえてきた。
この声音で、嫌な記憶が蘇った。
引きこもりの原因となった高校生活。
ホーケーと仇名された頃の悪夢。
丁度、俺の仇名を呼ぶ時の声音と今の声音が似ていた。
あからさまに格下の相手を数で虐げる時の声音だ。
「あっちいけよなー!」
「くらえー!」
「よっしゃめいちゅーぅ!」
見れば、そこには先日の雨で泥沼みたいになっている畑。
その中で体中泥だらけにしている三人の子供たちが、道を歩いている一人の少年に向かって泥を投げつけていた。
「頭に当てたら十点な!」
「っしゃー!」
「俺あたった! あたったって!」
うわー。いやだいやだ。イジメの現場だ。ああいう奴らは、相手が格下なら何をやってもいいと思ってるんだ。エアガンを買ったら、そいつに向けて撃ってもいいと考えているんだ。人に向けて撃つなと書いてあるのにだ。相手を人として見てないからだ。人として許せんね。
少年はというと、足早にそこを去ればいいのに、なぜか遅々として進んでいかない。
よく見ると、バスケットのようなものを胸元に抱えており、それに泥玉が当たらないように身を縮こまらせているからだ。
そのため、イジメっ子たちの攻撃から逃げ切れないでいた。
「なんか持ってるぜ!!」
「魔族の宝か!!」
「どこで盗んできたんだー!!」
「あれにぶつけたら百点な!!」
「宝を奪いとろうぜ!!」
俺は少年の方に向かって走っていく。走りながら、魔術で泥玉を作る。そして射程距離に入った瞬間、全力投球。
「わっぶ」
「なんだぁ!?」
リーダー格っぽい、ひときわ体の大きい奴の顔面に命中。
「ってぇ、目に入った」
「なんだよお前!!」
「関係ねーやつが入ってくんなよ!!」
「魔族の味方すんのかよ!!」
標的が一瞬で俺の方に向いた。こういうのはどこの世界でも一緒だな。
「魔族の味方じゃありません。弱い者の味方なんです」
俺はドヤ顔で言ったが、少年たちは自分たちこそが正義という顔で糾弾してきた。
「かっこつけてんじゃねえよ!!」
「おまえ、騎士んところのヤツだな!!」
「お坊ちゃんかよ!!」
あらやだ。身元がバレてら。
「いーのかー!! 騎士の子供がこんなことして!!」
「騎士が魔族の味方だって言ってやろー!!」
「てか、兄ちゃんたち呼んでこようぜ!!」
「兄ちゃーん!! 変なのがいるぅー!!」
子供たちは仲間を呼んだ!
しかし誰も現れなかった。
しかし、俺の足は竦んだ!
ぐぬぬ、三人もいるとはいえ、子供に叫ばれて足が竦むとは情けない。
これがイジメられて引きこもった者のサガか……。
「う、うるさい! 三人で寄ってたかって一人を攻撃するとかお前ら最低だ!」
はぁ? って顔された。
む、むかつく。
「てめぇこそ大声だしてんじゃねえよ、バァーカ!!」
むかついたので、泥玉をもう一発投げる。はずれた。
「てめっ!!」
「あいつどこに泥持ってんだよ!!」
「いいからやり返せ!!」
三倍になって返ってきた。パウロに教えてもらった足捌きと魔術を駆使して華麗に回避。
「あ、あたんねぇ!!」
「よけんじゃねえよ!!」
ふはは、当たらなければどうということはない!
しばらく三人は泥玉を投げ続けていたが、俺に当たらないとわかると、急につまんなくなったとでも言わんばかりに、手を止めた。
「あーあ!! つまんねぇの!!」
「もう行こうぜ!!」
「騎士んとこのが魔族と仲良くしてたって言いふらそーぜ!!」
別に俺ら負けてないから。飽きたからやめただけだから。
そんな口調で言い残して、三人のクソガキは畑の向こうへと去っていった。
やった! 生まれて初めてイジメっ子を倒したぞ!
じ、自慢にはならねえな。
ふぅ。それにしても、やっぱ喧嘩は得意になれないな。殴り合いにならなくてよかった。
「君、大丈夫? 荷物は無事?」
とりあえず、泥を投げつけられていた少年に振り返ってみると……。
(わーぉ……)
同じぐらいの歳とは思えないほどの美少年がそこにいた。
子供にしては随分と長いまつ毛に、すっと通った鼻筋に、薄い唇、ぞくりとするような顎のライン。白磁のような肌──それらに怯えたウサギのような表情が相まって、なんとも言えない美しさを醸し出していた。
くそう、パウロがもっと美男子系だったら俺も……。
いや、パウロは悪くない。ゼニスも優秀だ。
だからこの顔は大丈夫だ。
生前のあのニキビと皮下脂肪だらけの顔に比べれば大丈夫だ。
十分いけるって、うん。
「う……うん……だ、大丈夫……」
少年は怯えた顔を向けてきた。
まるで小動物のようで保護欲を誘う。
ショタコンのお姉さんがいたら、一発でジュンってなるだろう。
が、今はそれもこびりついた泥のせいで台無しだ。
服は泥だらけ。顔の半分に泥が付着し、頭にいたっては泥一色。
バスケットを守れたのは奇跡的といってもいい。
しょうがないな。
「ちょっと、そこに荷物置いて、そっちの用水路の前でひざまずいて」
「え……? え……?」
少年は目を白黒させながらも、なぜか言われたままにしてくれる。
あまり人の言うことに逆らわない子らしい。
まあ、逆らう子ならさっきのイジメにも反撃してるか。
少年は四つん這いで用水路を覗きこむような姿勢になっている。
ショタコンのお兄さんがいたら、一発でズグンってなるだろう。
「目をつぶってろ」
俺は水の温度を火の魔術で適当に調整する。
熱すぎず冷たすぎず、四十度ほどのお湯を作り出す。
そいつを少年の頭にぶっかける。
「わぁっ!!」
慌てて逃げようとする少年の首根っこを掴んで、泥を綺麗に洗い落とす。
最初は暴れていたけど、お湯の温度になれてくると、またおとなしくなった。
服の方は……家で洗濯したほうがいいだろう。
「よし、こんなもんかな」
泥が落ちたので、俺は風を火の魔術で適当に調整してドライヤーのように温風を送りつつ、ハンカチで少年の顔を丁寧に拭ってやった。
すると、エルフのようにとんがった耳と、日光に輝く、綺麗なエメラルドグリーンの髪が現れた。
その色を見た瞬間、ロキシーの言葉が思い出される。
『エメラルドグリーンの髪を持つ種族には、絶対に近寄ってはいけません』
ん?
いや、ちょっと違ったな。
確か……。
『エメラルドグリーンの髪を持っていて、額に赤い宝石のようなのがついた種族には、絶対に近づかないでください』
そうだ。確かこうだ。
額に赤い宝石のようなのがついた種族、だ。