無職転生 ~異世界行ったら本気だす~ 1 (MFブックス)

理不尽な孫の手

 思わずそんな言葉があふれる。

 俺だって、生まれた時からクズ人間だったわけじゃない。

 そこそこ裕福な家庭の三男として生まれた。兄兄姉弟。五人兄弟の四番目。小学生の頃は、この歳にしては頭がいいと褒められて育った。勉強は得意じゃなかったが、ゲームがうまくて、運動もできるお調子者。クラスの中心だった。

 中学時代にはパソコン部に入り、雑誌を参考に、お小遣いを貯めて自作PCを作成。パソコンのパの字も知らなかった家族からは、一目も二目も置かれていた。

 人生が狂ったのは高校……いや、中学三年からだ。パソコンにかまける余りに、勉強をおろそかにした。今考えれば、これがきっかけだったのかもしれない。

 勉強なんか、将来に必要ないと思っていた。役に立たないと思っていた。

 その結果、県内でも最底辺とうわさの超絶バカ高校に入学するハメになった。

 そこでも、俺はイケる気でいた。

 やればできる俺は、他の馬鹿どもとは出来がちがうんだと思っていた。思っていたんだ。


 あの時のことは、今でも覚えている。

 購買で昼食を買おうとして並んでいた時、いきなり横入りしてきた奴がいた。

 俺は正義漢ぶってそいつに文句を言った。当時、変な自尊心と、中二病心あふれる性格をしていたためにやってしまった暴挙だ。

 しかし、最悪なことに相手は先輩で、この学校でも一、二を争うほど危ない奴だった。

 結果として、俺は奴らに顔がれ上がるまで殴られ、全裸で校門にはりつけにされた。

 写真もいっぱい撮られ、いとも容易たやすく、面白半分で学校中にバラまかれた。

 俺のヒエラルキーは一瞬にして最下層に落ちて、ホーケーというあだを付けられてからかわれた。

 一ヶ月も学校に通わないうちに不登校になって引きこもった。父や兄はそんな俺を見て、勇気を出せだの、頑張れだのと無責任な言葉を投げつけた。俺はその言葉を全て無視した。

 俺は悪くない。

 あんな状況で、誰が学校に行けるというんだ。

 誰だって、あんな状況になったら学校になんて行けない。行けるわけがない。

 だから、誰に何を言われても、断固として引きこもった。

 同年代の知り合いが、みんな俺の写真を見て笑っていると思っていた。

 家から出ずとも、パソコンとネットがあれば、時間はいくらでもつぶせた。ネットで影響を受けて、色んなことに興味を持ち、色んなことをやった。プラモを作ったり、フィギュアを塗装してみたり、ブログをやってみたり。母はそんな俺を応援するがごとく、ねだればいくらでも金を出してくれた。

 が、どれも一年以内には飽きた。

 自分より上の人間を見て、やる気が失せたのだ。

 はたから見れば、ただ遊んでいるだけに見えただろうけど、一人だけ時間に取り残され、暗い殻に閉じこもってしまった俺には、他にできることがなかった。

 いいや、今にして思えば、そんなのは言い訳だ。

 まだ、漫画家になると言い出してヘタクソなWEB漫画を連載してみたり、ラノベ作家になると言い出して小説を投稿してみたりするほうがマシだったろう。

 俺と似たような境遇でそうしている奴はたくさんいた。

 そんな奴らを、俺は馬鹿にしていた。

 彼らの創作物を見て鼻で笑って、「クソ以下だな」と評論家気取りで批判していた。

 自分は何もやっていないのに……。


 戻りたい。

 できれば最高だった小学か、中学時代に。いや、一、二年前でもいい。ちょっとでも時間があれば、俺には何かができたはずなんだ。どれも中途半端でやめたから、どれも途中から始められる。

 本気を出せば、一番にはなれなくても、それなりのプロにはなれたかもしれない。

「……」

 なんで俺は今まで、何もやってこなかったのだろうか。

 時間はあったのだ。その時間、俺はずっと部屋に引きこもっていたが、パソコンの前に座りながらでもできることはいくらでもあったはずだ。一番になれなくても、何かの道の中堅として頑張っていくことは、いくらでもできたはずなのだ。

 漫画でもいい、小説でもいい。ゲームでも、プログラミングでも。何かしら、本気で取り組んでいれば、何か成果を残せたはずなのだ。それが金銭につながるかどうかはさておき……。

 いや、よそう。無駄だ。

 俺は頑張れなかった。きっと過去に戻っても似たようなことでつまずいて、似たようなことで立ち止まったに違いない。普通の人間が無意識に乗り越えられるべき所を乗り越えられなかったから、俺は今ここにいるのだ。

「ん?」

 ふと、激しい雨の中、俺は誰かの言い争う声を聞いた。

 けんだろうか。

 嫌だな、かかわり合いになりたくない。そう思いつつも、足はまっすぐにそちらに向かっていた。

「──だから、あんたが──」

「おまえこそ──」

 見つけたのは、痴話喧嘩の真っ最中らしき三人の高校生だ。

 男二人に女が一人。いまどき珍しいことに、詰襟とセーラー服。

 どうやら修羅場らしく、ひときわ背の高い少年と少女が何かを言い争っていた。もう一人の少年が、二人を落ち着かせようと間に入っているが、喧嘩中の二人は聞く耳を持たない。

(ああ、俺にもあったな、あんなの)

 それを見て、俺は昔のことを思い出す。

 中学時代には、俺にも可愛かわいおさなじみがいた。可愛いといっても、クラスで四番目か五番目ぐらい。陸上部だったので髪型はベリィショート。町を歩いて十人とすれ違ったら、二人か三人ぐらいは振り返る、そんなようぼうだ。もっとも、あるアニメにハマり、陸上部といえばポニテと言ってはばからなかった俺にとって、彼女はブスもいいところだった。

 けれど、家も近く、小中と同じクラスになることも多かったので、中学になっても、何度か一緒に帰ったりもした。会話をする機会は多かったし、口喧嘩をしたりした。惜しいことをしたもんだ。今の俺なら、中学生・幼馴染・陸上部、それらの単語だけで三発はイケる。

 ちなみに、その幼馴染は七年前に結婚したらしいと風の噂で聞いた。

 風の噂といっても、リビングから聞こえてきた兄弟の会話だが。

 決して悪い関係じゃなかった。お互いを小さい頃から知っていたから、気兼ねなく話せていた。

 彼女が俺にれていたとかは無かったと思うが、もっと勉強してあの子と同じ高校に入っていれば、あるいは、同じ陸上部に入って推薦入学でもしていれば、フラグの一つも立ったかもしれない。 本気で告白すれば、付き合うことぐらいはできたかもしれない。

 そして、彼らのように、帰り道で喧嘩したりするのだ。あわよくば、放課後に誰もいない教室でエロいことも。

 ハッ、どこのエロゲーだ。

(そう考えるとあいつらマジリア充だな。爆発しろ……ん?)

 と、俺はその瞬間に気づいた。

 一台のトラックが三人に向かって猛スピードで突っ込んできているのを。

 そして、トラックの運転手がハンドルに突っ伏しているのを。


 居眠り運転。

 三人はまだ気づいていない。


「ぁ、ぁ、ぶ、危ねぇ、ぞぉ」

 とっに叫んだつもりだったが、十年以上もロクに声を出していなかった俺の声帯は、肋骨の痛みと雨の冷たさでさらに縮こまり、情けなくも震えた声しか発せず、雨音にかき消された。

 助けなきゃ、と思った。同時に、俺がなんでそんなことを、とも思った。

 だが、もし助けなければ、五分後にきっと後悔するんだろうと直感した。すさまじい速度で突っ込んでくるトラックにハネられ、ぐちゃぐちゃに潰れる三人を見て、後悔するんだろうと直感した。

 助けておけばよかった、と。

 だから助けなきゃ、と思った。

 俺はもうすぐ、きっとどこかそのへんで野垂れ死ぬだろうけど、その瞬間ぐらいは、せめてささやかな満足感を得ていたいと思っていた。

 最後の瞬間まで後悔していたくないと思った。


 ──転げるように走った。


 十数年以上もロクに動いていなかった俺の足はいうことを聞かない。もっと運動をしておけばと、生まれて初めて思った。折れた肋骨が凄まじい痛みを発し、俺の足を止めようとする。もっとカルシウムを取っておけばと、生まれて初めて思った。

 痛い。痛くてうまく走れない。

 けれども走った。走った。

 走れた。

 トラックが目の前に迫っているのに気づいて、喧嘩していた少年が少女を抱き寄せた。もう一人の少年は、後ろを向いていたため、まだトラックに気づいていない。唐突にそんな行動にでたことに、きょとんとしている。俺は迷わず、まだ気づいていない少年の襟首をつかんで、こんしんの力で後ろに引っ張った。少年は俺に引っ張られ、トラックの進路の外へと転がった。

 よし、あと二人。

 そう思った瞬間、俺の目の前にトラックがいた。安全な所から、腕だけ伸ばして引っ張ろうと思ったのだが、人を引っ張れば、反作用で自分が前に出る。

 当然のことだ。俺の体重が一〇〇キロを超えていようと関係ない。全力疾走でガクガクしていた足は、簡単に前に出てしまった。


 トラックに接触する瞬間、何かが後ろで光った気がした。


 あれが噂の走馬灯だろうか。一瞬すぎてわからなかった。早すぎる。

 中身の薄い人生だったということか。

 俺は自分の五十倍以上の重量を持つトラックに跳ね飛ばされ、コンクリートの外壁に体を打ち付けた。

「かッハ……!!

 肺の中の空気が一瞬で吐き出される。全力疾走で酸素を求める肺がけいれんする。

 声も出ない。だが、死んではいない。たっぷりと蓄えた脂肪のおかげで助かった……。

 と思ったが、トラックはまだ迫ってきていた。

 俺はトラックとコンクリートに挟まれて、トマトみたいに潰れて死んだ。



第一話「もしかして:異世界」


 目が覚めた時、最初に感じたのはまぶしさだった。

 視界一杯に光が広がり、俺は不快な気分で目を細めた。

 次第に目が慣れてくると、金髪の若い女性が俺をのぞき込んでいるのがわかった。

 美少女……いや美女と言っていいだろう。

(誰だ?)

 隣には、同じくまだ年若い茶髪の男性がいて、ぎこちない笑みを俺に向けている。

 強そうでワガママそうな男だ。筋肉がすごい。

 茶髪でワガママそうとか……こういうDQNっぽい奴は見た瞬間に拒否反応が出るはずなのだが、不思議と嫌悪感がなかった。

 恐らく、彼の髪が染めたものではないからだろう。れいな茶髪だった。

「──××──××××」

 女性が俺を見て、にっこり笑って何かを言った。

 何を言っているのだろうか。なんだかボンヤリして聞き取りにくいし、全然わからない。

 もしかして、日本語じゃないのか?

「────×××××───×××……」

 男の方も、ゆるい顔で返事をする。いやほんと、何を言ってるのかわからない。

「──××──×××」

 どこからか、三人目の声が聞こえる。

 姿は見えない。

 体を起こして、ここはどこで、あなた方は誰かを聞こうとした。

 俺は引きこもってたとはいえ、別にコミュ障ってわけじゃない。

 それぐらいはできる。


「あー、うあー」


 と思ったのだが、口から出てきたのは、うめき声ともあえぎ声とも判別のつかない音だった。

 体も動かない。

 指先や腕が動く感触はあるのだが、上半身が起こせない。

「×××───××××××」

 と、思ったら男に抱き上げられた。

 マジかよ、体重百キロ超の俺をこうも簡単に……。

 いや、何十日も寝たきりだったのなら、体重は落ちているか。

 あれだけの事故だ。手足が欠損してる可能性も高い。

(生き地獄だなぁ……)

 あの日。

 俺はそんなことを考えていたのだった。


    ★ ★ ★


 一ヶ月の月日が流れた。

 どうやら俺は生まれ変わったらしい。その事実が、ようやく飲み込めた。

 俺は赤ん坊だった。

 抱き上げられて、頭を支えてもらい自分の体が視界にはいることで、ようやくそれを確認した。

 どうして前世の記憶が残っているのかわからないが、残っていて困ることもない。

 記憶を残しての生まれ変わり──誰もが一度はそういう妄想をする。

 まさか、その妄想が現実になるとは思わなかったが……。

 目が覚めてから最初に見た男女が、俺の両親であるらしい。

 年齢は二十代前半といったところだろうか。

 前世の俺よりも明らかに年下だ。

 三十四歳の俺から見れば、若造といってもいい。

 そんな歳で子供を作るとは、まったくねたましい。

 初日から気づいてはいたが、どうやらここは日本ではないらしい。

 言語も違うし、両親の顔立ちも日本人ではない、服装もなんだか民族衣装っぽい。

 家電製品らしきものも見当たらない(メイド服着た人がぞうきんで掃除してた)し、食器や家具なんかも粗末な木製だ。先進国でないだろう。

 明かりも電球ではなく、ロウソクやランプを使っている。

 もっとも、彼らが特別に貧乏で電気代も払えないという可能性もある。

 ……もしかして、その可能性は高いのか?

 メイドっぽい人がいるから、てっきりそれなりに金があるのかと思ったが、

 彼女が、父か母の姉妹と考えれば、なにもおかしいことはない。家の掃除ぐらいするだろう。

 確かにやり直したいとは思ったが、電気代も支払えないほど貧乏な家に生まれるとは、これから先が思いやられる。


    ★ ★ ★


 さらに半年の月日が流れた。


 半年も両親の会話を聞いていると、言語もそれなりに理解できるようになってきた。

 英語の成績はあまりよくなかったのだが、やはり自国語に埋もれていると習得が遅れるというのは本当らしい。それとも、この身体の頭の出来がいいのだろうか。まだ年齢が若いせいか、物覚えが異常にいい気がする。

 この頃になると、俺もハイハイぐらいはできるようになった。

 移動できるというのは素晴らしいことだ。

 身体が動くということにこれほど感謝したことはない。

「眼を放すとすぐにどこかに行っちゃうの」

「元気でいいじゃないか。生まれてすぐの頃は全然泣かなくて心配したもんだ」

「今も泣かないのよねぇ」

 動きまわる俺を見て、両親はそんな風に言っていた。

 さすがに腹が減った程度でビービー泣くような歳じゃない。

 もっとも、シモの方は我慢してもいずれ漏らすので、遠慮せずぶっ放させてもらっているが。


 ハイハイとはいえ、移動できるようになると、色んなことがわかってきた。

 まず、この家は、裕福だ。

 建物は木造の二階建てで、部屋数は五つ以上。メイドさんを一人雇っている。

 メイドさんは、最初は俺の叔母さんかとも思ったが、父親と母親に対する態度がかしこまったものだったので、家族ではないだろう。

 立地条件は、田舎だ。

 窓から見える景色は、のどかな田園風景である。

 他の家はまばらで、一面の小麦畑の中に、二~三軒見える程度。

 かなりの田舎だ。電柱や街灯のたぐいは見えない。近くに発電所が無いのかもしれない。

 外国では地面の下に電線を埋めると聞いたことがあるが、ならこの家で電気を使っていないのはおかしい。

 さすがに田舎すぎる。文明の波にまれてきた俺にはちょっときついかもしれない。

 生まれ変わってもパソコンぐらい触りたいのだ。


 などと思っていたのは、ある日の昼下がりまでだ。

 することが無いのでのどかな田園風景でも見ようと思った俺は、いつもどおり椅子によじ登り、窓の外を見てギョッとした。

 父親が庭で剣を振り回していたからだ。

(ちょ、え? 何やってんの?)

 いい年してそんなの振り回しちゃうようなのが俺の親父なわけ? 中二病なわけ?

(あ、やべ……)

 驚いた拍子に椅子から滑った。

 未熟な手は椅子をつかんでも身体を支えることができず、重い後頭部から地面へと落ちていく。

「キャア!!

 どしんと落ちた瞬間、悲鳴が聞こえた。

 見れば、母親が洗濯物を取り落とし、口に手を当てて真っ青な顔で俺を見下ろしていた。

「ルディ!! 大丈夫なの!?

 母親は慌てて駆け寄ってきて、俺を抱き上げた。

 視線が絡むと、あんした顔になって胸をでおろした。

「……ほっ、大丈夫そうね」

(頭を打った時は、あんまり動かさないほうがいいんだぜ、奥さん)

 と、心の中で注意してやる。

 あの慌てようを見るに、危ない落ち方をしたのだろう。

 後頭部からいったしな、アホになったかもしれん。あんま変わらんか。

 頭がズキズキする。一応は椅子に掴まろうとしたし、勢いは無かった。

 母親があまり慌てていないところを見ると、血は出ていないようだ。たんこぶ程度だろう。

 母親は注意深く俺の頭を見ていた。

 傷でもあったら一大事だと言わんばかりの表情をしている。

 そして最後に、俺の頭に手を当てて、

「念のため……。神なる力はほうじゅんなる糧、力失いしかの者に再び立ち上がる力を与えん『ヒーリング』」

 吹きそうになった。

 おいおい、これがこの国の「イタイのイタイのとんでけ」かよ。

 それとも、剣を振り回す父親に続いて母親の方も中二病か?

 戦士と僧侶で結婚しましたってか?

 と、思ったのもつかの間。

 母親の手が淡く光ったと思った瞬間、一瞬で痛みが消えた。

(……え?)

「さ、これで大丈夫よ。母さん、これでも昔は名の知れた冒険者だったんだから」

 自慢気に言う母親。

 俺は混乱していた。

 剣、戦士、冒険者、ヒーリング、詠唱、僧侶。そんな単語がぐるぐると俺の中を回っていた。

 なんだ、いまの。何したの?

「どうした?」

 母親の悲鳴を聞きつけて、窓の外から父親が顔をのぞかせた。

 剣を振り回していたせいか、汗をかいている。

「聞いてあなた、ルディったら、椅子の上になんかよじ登って……危うく大怪我するところだったのよ」

「ま、男の子はそれぐらい元気でなくちゃな」

 ちょっとばかしヒステリックな母親と、それをおうように流す父親。

 よく見る光景だ。

 だが、今回は後頭部から落ちたせいだろう、母親も譲らなかった。

「あのねあなた、この子はまだ生まれてから一年も経ってないんですよ。もっと心配してあげて!!

「そうは言ったってな。子供は落ちたり転んだりして丈夫になっていくものじゃないか。それに、怪我をしたなら、そのたびにおまえが治せばいい」

「でも、あんまり大怪我をされて治せなかったらと考えると心配で……」

「大丈夫だよ」

 父親はそう言って、母親と俺を一緒に抱きしめた。

 母親の顔が赤く染まる。

「最初は泣かなくて心配だったけど、こんなにヤンチャなら、大丈夫……」

 父親は母親にチュっとキスをした。

 おうおう、見せつけてくれるねお二人さん、ヒューヒュー。


 その後、二人は俺を隣の部屋で寝かせると、上の階へ移動して、俺の弟か妹を作る作業へと入っていった。

 二階に行ってもギシギシアンアン聞こえるからわかるんだよ、リア充め……。

(しかし、魔法か……)


    ★ ★ ★


 それからというもの、俺は両親やお手伝いさんの会話に注意深く耳を傾けるようになった。

 すると、聞きなれない単語が多いことに気づいた。

 特に、国の名前や領土の名前、地方の名前。固有名詞は聞いたことのないものしかなかった。

 もしかするとここは………。

 いや、もう断定していいだろう。

 ここは地球ではなく、別の世界だ。


 剣と魔法の異世界だ。


 そこで、ふと思った。

 ……この世界なら、俺もできるんじゃないだろうか、と。

 剣と魔法の世界なら、生前と常識の違う世界なら、俺にだってできるんじゃないだろうか。

 人並みに生きて、人並みに努力して。つまずいても立ち上がって、なお前を向いて生きていくことが。

 生前は死ぬ間際に後悔した。

 自分の無力さと、何もしてこなかったことへのいらちを持ちながら、死んだ。

 けど、それを知っている俺なら。

 生前の知識と経験を持つ今の俺なら、できるんじゃないだろうか。

 ──本気で生きていくことが。



第二話「ドン引きのメイドさん」


 リーリャはアスラ後宮の近衛侍女だった。

 近衛侍女とは、近衛兵の性質を併せ持つ侍女のことである。

 普段は侍女の仕事をしているが、有事の際には剣を取ってあるじを守るのだ。

 リーリャは職務には忠実であり、侍女としての仕事もそつなくこなした。

 しかし、剣士としては十把一からげの才能しか持ち合わせていなかった。

 ゆえに、生まれたばかりの王女をねらう暗殺者と戦って不覚を取り、短剣を足に受けてしまうこととなった。

 短剣には毒が塗ってあった。王族を殺そうとするような毒である。

 解除できる解毒魔術の無い、厄介な毒である。

 すぐに傷を治療魔術で治し、医者が解毒を試みたおかげで一命は取り留めたものの、後遺症が残ってしまった。

 日常生活を送る分には支障は無いが、全速力で走ることも、鋭く踏み込むこともできなくなった。

 リーリャの剣士生命はその日、終わりを告げた。

 王宮はリーリャをあっさりと解雇した。

 珍しいことではない。リーリャも納得している。

 能力がなくなれば解雇されるのは当然だ。

 当面の生活資金すらもらえなかったが、後宮務めを理由に、秘密裏に処刑されなかっただけでももうけものだと思わなければいけない。


 リーリャは王都を離れた。

 王女暗殺の黒幕はまだ見つかっていない。

 後宮の間取りを知っているリーリャは、自身が狙われる可能性があると深く理解していた。

 あるいは王宮はリーリャを泳がせて、黒幕を釣ろうとしていたのかもしれない。

 昔、なんで家柄もよくない自分が後宮に入れたのかと疑問に思ったが、今にして思えば、使い捨てになるメイドを雇いたかったのかもしれない。

 何にせよ、自衛のためにも、なるべく王都から離れる必要があった。

 王宮がえさとして自分を放流したのだとしても、何も命じられていない以上、拘束力はない。

 義理立てする気もなかった。


 リーリャは乗合馬車を乗り継いで、広大な農業地域が続く辺境、フィットア領へとやってきた。

 領主の住むじょうさい都市ロア以外は、一面に麦畑が広がるのどかな場所だ。

 リーリャはそこで仕事を探すことにした。

 とはいえ、足を怪我した自分には荒事はできない。

 剣術ぐらいなら教えられるかもしれないが、できれば侍女として雇ってもらいたかった。

 そっちのほうが、給料がいいからである。

 この辺境では剣術を使える者、教える者は数多くいるが、家の仕事を完璧にできる教育された侍女は少ないのだ。

 供給が少なければ、賃金も上がる。

 だが、フィットア領主や、それに準じた上級貴族の侍女として雇われるのは危険だった。

 そうした人物は、当然ながら王都ともパイプを持っている。

 後宮付きの近衛侍女だったと知られると、政治的なカードとして使われる可能性もあった。

 そんなのはゴメンだ。

 あんな死にそうな目には、二度と遭いたくない。

 姫様には悪いが、王族の後継者争いは自分の知らない所で勝手にやってほしいものである。


 といったものの、賃金の安すぎる所では、家族へ仕送りもままならない。

 賃金と安全の二つを両立できる条件はなかなか見つからなかった。


    ★ ★ ★


 一ヶ月かけて、各地を回ったところ、一つの募集が目についた。

 フィットア領のブエナ村にて、下級騎士が侍女を募集中。

 子育ての経験があり、助産婦の知識を持つ者を優遇する、と書いてある。

 ブエナ村はフィットア領の端にある、小さな村である。

 田舎中の田舎、ド田舎だ。

 不便な場所ではあるが、まさにそういう立地こそ自分は求めていたのだ。

 それに、雇い主が下級騎士とは思えないほど条件が良かった。

 何より、募集者の名前に見覚えがあった。

『パウロ・グレイラット』

 彼はリーリャの弟弟子である。

 リーリャが剣を習っていた道場に、ある日突然転がり込んできた貴族のドラ息子だ。

 なんでも父親とけんして勘当されたとかで、道場に寝泊まりしながら剣を習いだした。

 流派は違えども、剣術を家で習っていたこともあり、彼はあっという間にリーリャを追い越した。

 リーリャとしては面白くなかったが、今となっては自分に才能がなかっただけだとあきらめている。

 才能あふれるパウロはある日、問題を起こして道場を飛び出していった。

 リーリャには一言「冒険者になる」と言い残して。

 嵐のような男だった。


 別れたのは七年ぐらい前になるか。

 あの時の彼が、まさか騎士になって結婚までしているとは……。

 彼がどんならんばんじょうの人生を送ってきたかは知らないが、リーリャの記憶にあるパウロは決して悪いヤツではなかった。

 困っているといえば助けてくれるだろう。

 ダメなら昔のことを持ちだそう。

 交渉材料となる逸話はいくつかある。

 リーリャは打算的にそう考えて、ブエナ村へと赴いた。

 パウロはリーリャを快く迎えてくれた。

 奥方のゼニスがもうすぐ出産ということで、焦っていたらしい。

 リーリャは王女の出産と育成に備えてあらゆる知識と技術をたたきこまれたし、顔見知りかつ出自もハッキリしているということで、身元も安全。

 歓迎された。

 賃金も予定より多く払ってくれるというので、リーリャとしても願ったりかなったりだった。


    ★ ★ ★


 子供が生まれた。

 難産でもなんでもない、後宮でした練習どおりの出産だ。

 何も問題はなかった。スムーズにいった。

 なのに、生まれた子供は泣かなかった。

 リーリャは冷や汗をかいた。

 生まれてすぐに鼻と口を吸引して羊水を吸い出したものの、赤子は感情のない顔で見上げているだけで、一声も発しない。

 もしや、死産なのか、そう思うほどの無表情だ。

 触ってみると、温かく脈打っていた。息もしている。

 しかし、泣かない。

 リーリャの心中に、先輩の近衛侍女から聞いた話がよぎる。

 生まれてすぐに泣かない赤子は、異常を抱えていることが多い。

 まさかと思った次の瞬間、

「あー、うあー」

 赤子がこちらを見て、ぼんやりした表情で何かをつぶやいた。

 それを聞いて、リーリャは安心した。

 何の根拠もないが、なんとなく大丈夫そうだ、と。


    ★ ★ ★


 子供はルーデウスと名付けられた。

 不気味な子供だった。一切泣かないし、騒がない。もしかしたら身体が弱いのかもしれないが、手間がかからなくていい。

 などと、思っていられたのは、最初だけだった。

 ルーデウスはハイハイができるようになると、家中のどこにでも移動した。

 家中の、どこにでも、だ。炊事場や裏口、物置、掃除道具入れ、暖炉の中……などなど。

 どうやって登ったのか、二階にまで入り込んだこともあった。

 とにかく眼を離すと、すぐにいなくなった。

 だが、なぜか必ず家の中で見つかった。

 ルーデウスは、決して家の外に出ることはなかった。

 窓から外を見ている時はあるが、まだまだ外は怖いのか。


 リーリャがこの赤ん坊に本能的な恐怖を感じるようになったのは、いつからだろうか。

 眼を離していなくなり、探して見つけ出した時だろうか。

 大抵の場合、ルーデウスは笑っていた。

 ある時は台所で野菜を見つめて、ある時はしょくだいのろうそくに揺れる火を見つめて、また、ある時は洗濯前のパンツを見つめて。

 ルーデウスは口の中で何かをブツブツと呟いては、気持ち悪い笑みを浮かべて笑うのだ。


 ──それは生理的嫌悪感を覚える笑みだった。


 リーリャは後宮に務めていた頃、任務で何度か王宮まで足を運んだのだが、その時に出会った大臣が浮かべる笑みによく似ていた。

 禿はげあたまをテカらせて、デップリと太った腹を揺らしながら、リーリャの胸を見て浮かべる笑みに似ているのだ。生まれたばかりの赤ん坊が浮かべる笑みが。

 特に、恐ろしいのはルーデウスを抱き上げた時だ。

 ルーデウスは鼻の穴を膨らませて、口の端を持ち上げて、鼻息も荒く、胸に顔を押し付けてくる。

 そしてのどをひくつかせ、「フヒッ」と「オホッ」の中間くらいの奇妙な声で笑うのだ。

 その瞬間、ゾッとする悪寒が全身を支配する。

 胸に抱く赤ん坊を、思わず地面に叩きつけたくなるほどの悪寒が。

 赤ん坊の愛らしさなど欠片かけらもない。この笑みは、ただひたすらにおぞましい。

 若い女の奴隷をたくさん買い入れているといううわさの大臣と同じ笑み。

 それを生まれたばかりの赤ん坊がするのだ。

 比べ物にならないぐらい不快で、赤ん坊相手に身の危険すら感じてしまう。

 リーリャは考えた。

 この赤ん坊は何かがおかしい。もしかすると、何か悪いモノでもいているのかもしれない。あるいは、呪われているのかもしれない、と。

 そう思い立ったリーリャは、居てもたってもいられない気持ちになった。

 道具屋へ走り、なけなしの金を使って必要なものを購入。

 グレイラット家が寝静まった頃、故郷に伝わる魔除けを行った。

 もちろん、パウロには無断でだ。


 翌日、ルーデウスを抱き上げて、リーリャは悟る。

 無駄だった、と。

 相変わらずの気持ち悪さだった。赤ん坊がこんな顔をしているというだけで不気味だった。

 ゼニスも「あの子ってお乳を上げる時に、めるのよねぇ……」などと言っていた。

 とんでもないことだと思う。

 パウロも女に目がない節操無しだが、こんなに気持ち悪くはない。

 遺伝としてもさすがにおかしい。

 リーリャは思い出す。ああ、そういえば、後宮でこんな話を聞いたことがある、と。

『かつて、アスラの王子が、夜な夜な四つんいで後宮を動きまわるという事件があった。王子は悪魔に憑かれていたのだ。そうと知らずに、かつにも王子を抱き上げてしまうと、王子はその侍女を後ろ手に隠したナイフで、心臓を一突きにして殺してしまうのだ』

 なんて恐ろしい。

 ルーデウスはソレだ。

 間違いない。絶対そういう悪魔だ。

 今はおとなしくしているが、いずれかくせいし、家全体が寝静まった頃に一人、また一人と……。

 ああ……早まった。明らかに早まった。こんな所に雇われるんじゃなかった。

 いつか絶対襲われる。

 …………リーリャは迷信を本気で信じるタイプだった。


    ★ ★ ★


 最初の一年ぐらいは、そんな風におびえていた。

 しかし、いつからだろうか。予測できなかったルーデウスの行動がパターン化された。

 神出鬼没ではなくなり、二階の片隅にあるパウロの書斎にこもるようになった。

 書斎といっても、何冊か本があるだけの簡素な部屋だ。

 ルーデウスは、そこに篭って出てこない。ちらりとのぞいてみると、本を眺めてブツブツと何かを呟いている。

 意味のある言葉ではない。

 ないはずだ。少なくとも、中央大陸で一般的に使われている言語ではない。

 言葉をしゃべるのもまだ早い。文字なんてもちろん教えていない。

 だから 赤ん坊が本を見て、適当に声を出しているだけだ。

 そうでなければおかしい。


 だが、リーリャには、それがどうしても、意味のある言葉の羅列に聞こえて仕方がなかった。

 ルーデウスが本の内容を理解しているように見えて仕方がなかった。

 恐ろしい……。と、ドアのすきからルーデウスを見ながら、リーリャは思う。

 しかし、不思議と嫌悪感はなかった。

 思えば、書斎に篭るようになってから、正体不明の不気味さや気持ち悪さは次第になりを潜めていった。

 たまに気持ち悪く笑うのは変わらないが、抱き上げても不快感を覚えなくなった。

 胸に顔もうずめないし、鼻息も荒くならない。

 どうして自分はこの子をおぞましいなどと思っていたのだろうか。

 最近はむしろ、邪魔してはいけないと思うようなしんさや勤勉さを感じるようになった。

 ゼニスに話してみると、同じように感じたらしい。

 それ以来、放っておいたほうがいいのでは、と思うようになった。

 異常な感覚だと思った。

 生まれて間もない赤子を放っておくなど、人としてあるまじき行為だ。

 しかし、最近のルーデウスのひとみには知性の色が見えるようになった。

 数ヶ月前までは痴性しか感じられなかった瞳にだ。

 確固たる意志と、輝かんばかりの知性がだ。

 どうすればいいのか。知識はあれども経験の薄いリーリャには、判断が難しい。

 子育てに正解などない、と言っていたのは、近衛侍女の先輩だったか、それとも故郷の母親だったか。

 少なくとも今は気持ち悪くないし、不快にもならない。怖気おぞけも走らない。

 ならば、邪魔をして元に戻すこともない。

 ──放っておこう。

 リーリャは最終的に、そう判断したのだった。



第三話「魔術教本」


 俺が転生して、約二年の歳月が流れた。

 足腰もしっかりしてきて、一人で二足歩行ができるようになった。

 この世界の言葉もしゃべれるようになってきた。


    ★ ★ ★


 本気で生きると決めて、まずどうしようかと考えた。

 生前では何が必要だったか。

 勉強、運動、技術。

 赤ん坊にできることは少ない。せいぜい抱き上げられた拍子に胸に顔をうずめるぐらいだ。

 メイドにそれをやるとはあからさまに嫌そうな顔をする。

 きっとあのメイドは子供嫌いに違いない。

 運動はもう少し後でいいだろうと考えた俺は、文字を覚えるため、家の本を読み始めた。

 語学は大切だ。

 日本人は自国語の識字率はほぼ一〇〇%に近いが、英語を苦手とする者は多く、外国に出ていくとなると尻込みする者も多い。外国の言葉を習得しているということが、一つの技能と数えられるぐらいに。よって、この世界の文字を覚えることを、最初の課題とした。


 家にあったのはたった五冊だ。

 この世界では本は高価であるのか、パウロやゼニスが読書家ではないのか。

 恐らく両方だろう。数千冊の蔵書を持っていた俺には信じられないレベルだ。

 もっとも、全部ラノベだったが。


 五冊とはいえ、文字を読めるようになるのには十分だった。

 この世界の言語は日本語に近かったため、すぐに覚えることができた。

 文字の形は全然違うのだが、文法的なものはすんなりと入ってきた。

 単語を覚えるだけでよかった。言葉を先に覚えていたのも大きい。

 父親が何度か本の内容を読み聞かせてくれたから、単語をスムーズに覚えることができたのだ。

 この身体の物覚えの良さも関係しているのかもしれない。

 文字がわかれば、本の内容は面白い。

 かつては勉強を面白いと思うことなど、一生涯ないと思っていたが、よくよく考えてみれば、ネトゲの情報を覚えるようなものだ。面白くないわけがない。

 それにしても、あの父親は乳幼児に本の内容が理解できるとでも思っているのだろうか。

 俺だったからよかったものの、普通の幼児なら大ひんしゅくものだ。大声で泣き叫ぶぞ。


 家にあった本は次の五冊だ。


『世界を歩く』

 世界各国の名前と特徴が載ったガイド本。


『フィットアの魔物の生態・弱点』

 フィットアという地域に出てくる魔物の生態と、その対処法。


『魔術教本』

 初級から上級までの攻撃魔術が載った魔術師の教科書。


『ペルギウスの伝説』

 ペルギウスという召喚魔術師が、仲間たちと一緒に魔神と戦い世界を救う勧善懲悪のおとぎばなし


『三剣士と迷宮』

 流派の違う三人の天才剣士が出会い、深い迷宮へと潜っていく冒険活劇。


 最後の二つのバトル小説はさておき、他三つは勉強になった。

 特に魔術教本は面白い。

 魔術の無い世界からきた俺にとって、魔術に関する記述は実に興味深いものである。

 読み進めていくと、いくつか基本的なことがわかった。


一.まず、魔術は大きく分けて三種類しかない。


『攻撃魔術』──相手を攻撃する。

『治癒魔術』──相手を癒す。

『召喚魔術』──何かを呼び出す。

 この三つ。そのまんまだ。

 もっと色々なことができそうなものだが、教本によると魔術というものは戦いの中で生まれ育ってきたものだから、戦いや狩猟に関係のない所ではあまり使われていないらしい。


二.魔術を使うには、魔力が必要である。


 逆に言えば、魔力さえあれば、誰でも使うことができるらしい。

 魔力を使用する方法は二種類だ。

『自分の体内にある魔力を使う』

『魔力のこもった物質から引き出して使う』

 このどちらかだ。

 うまい例えが見つからないが、前者は自家発電、後者は電池みたいな感じだろう。

 大昔は自分の体内にある魔力だけで魔術を使っていたらしいが、世代が進むにつれて魔術も研究され、高難度になり、それに伴って消費する魔力が爆発的に増えていったそうだ。

 魔力の多い者はそれでもいいが、魔力の少ない者はロクな魔術が使えなかった。

 なので、昔の魔術師は自分以外のものから魔力を吸い出し、魔術に充てるという方法を思いついたのだ。


三.魔術の発動方法には二つの方法がある。


『詠唱』

『魔法陣』

 詳しい説明はいらないだろう。口で言って魔術を発動させるか、魔法陣を描いて魔術を発動させるか、だ。

 大昔は魔法陣の方が主力だったらしいが、今では詠唱が主流だ。

 というのも、大昔の詠唱は一番簡単なものでも一分~二分ぐらい掛かったらしい。

 とてもじゃないが戦闘で使えるものではない。

 逆に魔法陣は一度書いてしまえば、何度か繰り返し使用できた。

 詠唱が主流になったのは、ある魔術師が詠唱の大幅な短縮に成功したからだ。

 一番簡単なもので五秒程度まで短縮し、攻撃魔術は詠唱でしか使われなくなった。

 もっとも、即効性を求められない上、複雑な術式を必要とする召喚魔術は、いまだに魔法陣が主流だそうだ。


四.個人の魔力は生まれた時からほぼ決まっている。


 普通のRPGだとレベルアップするごとにMPが増えていくものだ。

 しかし、この世界では増えないらしい。

 ほぼ全員が職業戦士だという。ほぼ、というからには多少は変動するようだが……。

 俺はどうなんだろうか。

 魔術教本には魔力の量は遺伝すると書いてある。

 一応、母親は治癒魔術を使えるみたいだし、ある程度は期待していいんだろうか。

 不安だ。両親が優秀でも、俺自身の遺伝子は仕事をしなさそうだし。


    ★ ★ ★


 とりあえず俺は、最も簡単な魔術を使ってみることにする。

 基本的に魔術教本には魔法陣と詠唱の両方が載っていたが、詠唱が主流らしいし、魔法陣を書くものもなかったので、そっちで練習することにする。

 術としての規模が大きくなると詠唱が長くなり、魔法陣を併用したりしなければいけないらしいが、最初は大丈夫だろう。

 ちなみに、熟練した魔術師は、詠唱がなくても魔術が使えるらしい。

 無詠唱とか、詠唱短縮ってやつだ。

 しかし、なぜ熟練すると詠唱なしで使えるようになるのだろうか。

 魔力の総量が変わらないということは、レベルアップしてもMPが増えるわけじゃないだろうし。

 逆に、熟練度が上がると消費MPが減るんだろうか。

 いや、仮に消費MPが減ったところで、手順が減る理由にはならないか。

 ……まぁいいか。とりあえず使ってみよう。


 俺は魔術教本を片手に、右手を前に突き出して、文字を読み上げる。

なんじの求める所に大いなる水の加護あらん、清涼なるせせらぎの流れを今ここに『ウォーターボール』」

 血液が右手に集まっていくような感触があった。

 その血液が押し出されるようにして、右手の先にこぶし大の水弾ができる。

「おおっ!!

 と、感動した次の瞬間、水弾はバチャリと落ちて、床をらした。

 教本には、水の弾が飛んでいく魔術と書いてあるが、その場で落ちた。

 集中力が切れると、魔術は持続しないのかもしれない。


 集中、集中……。

 血液を右手に集める感じだ。こう、こう、こんな感じ……うん。


 俺は再度右手を構え、先ほどの感覚を思い出しながら、頭でイメージする。

 魔力総量がどんだけあるかわからないが、そう何度も使えないと考えたほうがいい。

 一回一回の練習を全て成功させるつもりで集中するんだ。

 まず頭でイメージして、何度も何度も頭の中で繰り返して、それから実際やってみる。

 つまずいたら、そこをまた頭でイメージする。脳内で完璧に成功するまで。

 生前、格ゲーでコンボ練習する時はそうしていた。

 おかげで俺は、対戦でもコンボをほとんど落としたことがない。

 だからこの練習法は間違っていない………と思いたい。

「すぅ……ふぅ……」

 深呼吸を一つ。

 足の先、頭の先から、右手へと血液を送るような感じで力をめていく。

 そしてそれを、手のひらからポンと吐き出すような感じで……。

 慎重に慎重に、心臓の鼓動に合わせて、少しずつ。少しずつ……。

 水、水、水、水弾、水の弾、水の玉、水玉、水玉パンツ……。

 邪念が混じった、もう一回。

 ギュッと集めてひねり出して水水水水…………。

「ハァッ!!

 と、思わず寺生まれの人みたいな掛け声を上げた瞬間、水弾ができた。

「おっ、え……?」

 ばちゃ。

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